伊豆 曹洞宗福地山 修禅寺
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◆2018
2018年1月 new
法戦式
生・老・病・死

◆2017
2017年8月
『空』クー
世尊指地
(御誕生寺僧堂での提唱録)

2017年1月
地獄は一定すみかぞかし
ごま『護摩』


◆2016
2016年8月
天地有情
恩師(心の師匠)

2016年1月
退歩を学すべし
唯念上人を懐う

◆2015
2015年8月 
無常者即仏性
真の閑道人

2015年1月 
徳雲の閑古錐
休歇なる悟迹を長長出ならしむ

◆2014
2014年8月
諸行無常
摩訶般若波羅蜜

2014年1月
山門修復事業御協賛のおねがい
いつでもどこでも佛さまといっしょ

◆2013
2013年7月
歩歩諸佛を生む
現成公案

2013年1月
寺は文化財の宝庫
また会おう!


◆2012
2012年8月
誰家無明月清風
一遍上人に思う

2012年1月
晋山式に思う


◆2011
2011年8月
清貧
如去如来第29号より

2011年1月
同行二人
迷う時は迷う


◆2010
2010年1月
道は脚下にあり

2010年5月
師匠

2010年9月
父(生死は仏の御命)



世尊指地(せそんしち)(御誕生寺僧堂での提唱録)
御誕生寺僧堂堂長・師家 吉野真常


 これからの話しを提唱という。私はそういう言葉を使っています。ひっさげて唱える。何をひっさげるのかと言う事。講義ではない、法をひっさげて唱えるのです。しかし法と言う物はないんですね。一毫の仏法なしですから。法は、今・ココすなわち而今。それは自己です。今・ココにある自己は、移り変わって行く無常の当体です。ですから、自己は無いとも言えます。
 足利柴山老師だと思いますが、たしか、この方は百一歳まで生きられました。老師の晩年、病気かなにかで寝込んでいる時、参禅者の方が御見舞に来た。老師を励ますつもりで「また元気になっていただいて。私達は老師の提唱を楽しみにしていますから。」とか言った。そしたら柴山老師寝ながら、「大丈夫だ、今、ここでやるから」と言ったというのです。私は、今日この従容録(しょうようろく)第四則・世尊指地(せそんしち)という祖録をお借りして、法をひっさげてお話しをいたします。
 「(しゅ)(しめ)して(いわ)く、一塵纔(いちじんわずか)に擧げれば大地(まった)(おさま)る。疋馬單槍(ひつばたんそう)(きょう)を開き土を()ることは便(すなわ)ち。(ところ)(したがっ)て主と作り、(えん)()うて(しゅう)(そく)する(てい)なるべし、是甚麼人(これなんびと)ぞ。」
 これは万松(ばんしょう)禅師の示衆(じしゅう)です。「一塵(わずか)()れば大地(まった)(おさま)る」と。禅には、こういう語が沢山ありますね。毛巨海(けきょかい)()み、茶須彌(けしゅみ)()る」とかね。「有時は、一莖草を拈じて丈六の金身と()す」とか。
 何をもって一塵とするか。私や皆様。山や川の事です。そこに大地、すなわち天地宇宙が(おさ)まっている。般若心経では色即是空と言っています。色とは、一塵。空とは大地。それが別物ではないんです。だから(そく)と言った。それは、()。今・ココのようすです。現成(げんじょう)公案(こうあん)ナリ・大悟ハ現成ナリ・諸法ハ実相ナリ・百雑砕(ひゃくざつすい)。今・ココの一つ一つが佛様としてある。絶対の物としてある。一塵(いちじん)がです。
 疋馬單槍(ひつばたんそう) (きょう)を開き土を展るとは、(すなわ)(ところ)(したがっ)て主と()り、縁に遇うて宗に即する底なるべし。」(ひつ)というのは何匹と言うこと。動物を数える時の。單槍とは一本の槍です。だから一匹の馬と一本の槍だ。(きょう)というのは(さかい)。領土の境のこと。土というのは土地です。土地を展る。仏様と一つの人の働きぶりです。大悟現成底の人のようす。今・ココに誠を尽す人のありようです。皆、今・ココの二度と戻らない絶対の所に居るのだけれども、肚が決まらない。よく分からない。そこに居てウロウロしている。ああだ、こうだ。儲かる、儲からんとかね。鳥飛んで鳥の如く、魚行いて魚に似たりという語があります。人間以外は、皆、今・ココを精一杯生きている。人は、今・ココに()る自己。それも瞬時に移り変っている無相の自己に何かを付けて、儲かる、儲からんとか、悟りだ迷いだ言って、せっかくの戻ってこない今を、無常の当体の自己を生き切れない。精一杯、生き切っている人、その人を疋馬單槍、疆を開き土を展る人と言うのです。隨所(ずいしょ)に主となるとね。
 浄土真宗の開祖・親鸞上人は、こう言われています。「地獄は、一定すみかぞかし」と。また『無関門』の著者、無門慧海禅師は、「生死岸頭(がんとう)()いて大自在を得、六道四生の中に向って遊戯三昧(ゆげざんまい)ならん」と言っている。禅の語に「地獄へ行って鬼と遊べ」と言う語がある。輪廻しない、そこに居る、そこを逃げない。
 「處に隨て主と()り、縁に遇うて宗に即する底なるべし」。宗は法のこと。作法是宗旨と言うでしょう。作法とはお行儀習いじゃないんです。威儀即仏法。四威儀とは、行住坐臥。すなわちいつでも、どこでもの事。それは、今・ココのようすです。
 「仏性の義を知らんと欲せば、まさに時節因縁を観すべし」と涅槃経にあります。今・ココは時節因縁があらわれ出た処・仏性の義を知る時節因縁は、今・ココ、直下にあるんです。正法眼蔵・大悟の巻に「佛佛の大道つたはれて平展なり」とある。今・ココ即処に仏性の義がある事を知る時、綿綿密密という事がハッキリ分る。「大悟現成し、不悟至道し、省悟弄悟し、失悟放行す、これ佛祖家常なり」と大悟の巻は続く。悟った時、悟りという特別な物はいらない。私は少年時代、体が弱くて背も小さかった。しかし柔道が大好きだった。始めに受け身を学んだ、しかし受け身のやり方を頭の中でいくら知っていても、使えない。何回も練習して、それを忘れなくては使えない。投げられる時、受け身をしようと思っていたら、受け身はできない。
 悟った時に悟りは無いと分る。私は、以前臨済宗にもおりました。悟りを大切にする臨済宗も、実は悟りがないのです。道が分った時に。道を悟った時には。大悟現成なんです。「茶に逢うては茶と喫し、飯に逢うては飯を喫す」とか「東司上不説佛法(とうすじょうぶっぽうをとかず)とかね。
 甚麼人(なんびと)。なに人。甚麼(じんも)と書いてある。什麼人でもなに人と言う。この間香積寺の風外禅師の頂相(ちんそう)を見たら、風外禅師、自分で(さん)を書いていた。「是什麼人(これなんびと)とね。いいね。什麼人とは、法の人の事。
 今・ココは決った形がない。そして一度きり。だから実相は無相。移り変わって行く。これだなんてない。それを真常(私の名前)と名付けた。今・ココの自己を絡め取って名付けた、それが真常です。事実は移り変って行く。瞬時に。「驢事未去馬事到来(ろじいまださらざるにばじとうらいす)です。今・ココは。そして皆・そこに居るのです。そしてその事がハッキリ分った時に、今・ココに誠を尽くす事ができる。
 本則に入ります。「世尊衆(せそんしゅ)()()いで」この所の万松禅師の著語(じゃくご)が面白い。「他の脚跟(きゃっこん)に隨って(てん)ず」と。ウロウロしてるわいとでも言うかな。他の脚跟(きゃっこん)に隨ってるのも「縁に逢うて(しゅう)に即する底」いつでもどこでも隙間がない。綿々密々。「手を(もっ)()()して(いわ)く、()処宜(ところよろ)しく梵刹(ばんせつ)()つべし」と。ここに梵刹を建つべしと言った。梵刹とは、寺の事です。寺ってなんだろう。住持(じゅうじ)職と言うけれども。住持の持は、手偏(てへん)があるんです。寺に住んでいるから住持じゃない。天桂(てんけい)禅師は、ひどい事を言っている。最近の住持には手偏がないと。住持とは、佛・法・僧の三宝に住し、護持した人。その人の居る所を寺と言う。住持三宝。三宝は、一体三宝。仏法僧は、別々でない。一つもの。一つ一つの側面から見ると違うように見えるだけです。そしてそれは現前三宝。大悟現成。道に気付いた人なら、今・ココ即ちいつでもどこでも綿綿密密に法はある・曼荼羅です。佛と佛の世界。「帝釈(たいしゃく)一茎草を()って地上に()しはさんで(いわ)く、梵刹を建つることは(すで)(おわ)んぬ」。はい建てましたよ、と。
 私は昔よく海外へ行きました。恐れ多いね。禅を多少学んだだけで。今考えると本当に恐しい。海外で坐禅したり法話をしたりしていたんですから。よくカトリックの教会や修道院で御世話になりました。その時、私よく神父様方に尋ねたんです。「いつ、どこでイエス様とお会いしますか?」と大体、教義的な理屈を言うんですね。キリスト教の隠遁者の言葉にこうある。「私の中に神様がお住みになると、私は祈りを止められなくなる。私が寝ている時も笑っている時も食べている時も祈りとなる。」どこでイエス様・神様とお会いしたか?綿々密々です。いつでも、どこでもです。いつでもとは、いつなのか?どこでもとは、どこなのか?今・ココなんです。今・ココで、イエス様・神様と一緒なんですね。戒律というのも、本来そこから見るべきでしょうね。いつでも、どこでも。それは、今・ココで佛様と一つかどうか。仏の御命(おんいのち)を生きているかどうかで。
「一茎草を将って地上に()しはさんで云く、梵刹を建つること巳に竟んぬ。」この著語に「修造易(しゅうぞうやす)からず」とある。簡単ではないぞと。大燈国師もそれを言ってる。金ピカな大伽藍を建てようと。人を沢山集めようとも、それだけでは、我が子孫にあらずと。
 それを聞いて「世尊微笑(みしょう)す」。次に「(じゅ)(いわ)わく」。宏智(わんし)禅師様の頌です。「百草頭上無辺の春」万松禅師の著語に「來山()()り」とある。來山さまの御言葉にあるんですね。百草と春は一つ。無辺の春は、どっかにあるんじゃない。百草頭上に表れている。無辺の春は百草頭上。百草頭上すなわち百雑粋に無辺の春。絶対が現れているぞと。「手に(まか)せて(ねん)(きた)って(もち)()(した)し」。もう今・ココにあるんですから。自由自在です。
 宗門は、威儀即仏法と言う。四威儀・行住坐臥が法と一つ。隙間がない。何か仏法の特別な威儀や作法があるわけではない。すき間なく法と一つ。著語に「荒田に入って(えら)ばず」。何から何まで、どういう状態にあっても、どっちへどう転んでも、法と一つ。
 私は、学生時代、すごく悩んでいた。本当の生き方は何か。何が真実なのか、とか。頭でっかちで、眼前の事に力を致すことができなかった。努力の仕方が分からなかった。(がん)が無いんだから。白隠さんの言葉に「禅は諸道に通ず」というのがある。「辧道」という言葉もある。辧とは、つとめる。努力する。力を致す。という意味。道に力を致す。道は脚下にあるんだから。今・ココのやるべき事、眼前の事に力を致す。昔は、勝った負けたとか、生きがいがどうとか、人の顔色を見て、親に言われて、フラフラしていたね。先生方も親も、道に力を致すと言う事を、言ってくれなかった。そしてその姿を見せてもくれなかった。皆すきまだらけな気がした。
 お坊さんになった時、始め太田洞水という師に付いた。そしてその方が大好きになりました。そこには、辧道があった。その方は、道に力を致すことを言ってくれた。彼は、体に弾が七発通っていた。第二次世界大戦で受けたもの。それから肩から背中まで切られていて、体中傷痕だらけだった。お会いした時、ウロウロしている自分が情けなかったね。そして生きる事、どう生きたらいいのかを教えて戴いた。
 今・御誕生寺にて板橋禅師様とお会いしている。本当に勉強になります。道に力を致すことを続けていると、こうなるという。生きた見本です。まず、理屈が無い。生きる事を喜んでいる。そして優しい。そして囚われない。禅師様は本当に優しくなった。昔から比べると。私が修禅寺から来ると、いつも「ありがとよ。ありがとよ」なんて言ってね。本当に「喜心・老心・大心」。毎朝四時半から坐禅・夜坐も。日に三回の飯台も大衆と一緒です。接心の時も、来客中は無理だけど、帰るともうすぐ坐禅に出てくる。私は、今六十二才ですが、本当によい師と御会いできたと思っています。禅師様のすごさは、表面からは、なかなか分らないでしょうね。
 次に「丈六の金身功徳聚(こんじんくどくしゅ)等閑(なおざり)()(たずさ)えて紅塵(こうじん)に入る」と。丈六の金身功徳聚を携えて、紅塵に入っていくんだ。「自ら(へい)(たずさ)()って村酒(そんしゅ)()い。(かえ)って(さん)()(きた)って主人(しゅじん)()る」という言葉があります。まあ自由自在だ。私が住職している修禅寺も観光客がいっぱい来る。そこで「丈六の全身功徳聚」が分からなければ本当にグジャグジャになってしまう。寺の中の者が、きちんと坐禅して今・ココの道に力を致す。それは(はず)さないで欲しいね。いくら観光客が来ても。道は、決った形なんて無いのだから。
 「塵中()(しゅ)となり。化外自(けがいおのずか)来賓(らいひん)す」。丈六金身と手を携えて紅塵に入って、そこで()く主となる。塵中で力を致す。そこで誠を尽す。なかなか、その事に気づかない。皆なんとか逃げ出そうとしてね。
 私も坐禅を続けて長い。いろいろな所で接心も沢山した。しかし五十才ぐらいまでの坐禅は硬かった。腰をそり グッと背を伸し、ビクリともしない。そんな坐禅でした。五十才のころ、自分の身体がおかしくなっている事に気がついたんです。風邪を引きやすくなったし、腰が痛くなった。病院へ行ったら先生から「あなたの腰骨は、すり減っている」と言われた。そんな事があって、もう一度自分の坐禅を点検したんです。今は、腰が痛くないし風邪もひかなくなりました。もちろん毎日坐禅をしております。今は、やわらかな坐禅になったと思う。体の中の緊張を感じると、それを取る、するとまた違う所が緊張しだす、それも取る。それから時に心臓の音を聞いたりもしている。体の中は、止まって静かにしていても、動いていますね。その微細な動きに自然に合わせて行くと、本当に楽に坐われる。
 丹田などと言うと、そんなの坐禅ではないと言われそうですが、私は、体感があるんです。正直な所。中心とでも言い変えましょうか。中心から同等に力が張り出している。球体のように。中心が分からないと球体が作れない。力がいびつになり腰を悪くする。ねじれができ膝にきます。五十才ごろ迄は中心と言うような体感がなかった。遮二無二坐禅していたからね。
 「化外自(けがいおのずか)来賓(らいひん)す」。化外とは、天子の力が及ばない所、すなわち法の力の及ばない所。そんな所あるのかね。化外・化内と分けていますが。どこへ行っても法の中です。何が来賓するのか。仏様かな。著語に「令行(れいこう)(とき)看取(かんしゅ)せよ」とある。令行とは公案が行われる時だ。もちろん現成(げんじょう)公案。
 「解処生涯(そくしょしょうがい)(ぶん)(したが)って()る」今・ココに在る・絶対の今・ココを生きているのに、そこに、何かを頭のなかで付け加えて、ああだ、こうだと言っている。物があるとか無いとか言う事ではない、道の上にいつも立っているという事です。その道の上に立っている事が分れば、道に力を致す事ができる。辧道です。「(いま)(きら)わず、技倆(ぎりょう)(ひと)()からざることを」、テクニックではない。ヘタはヘタなりに精一杯誠を尽くす。うまい、ヘタ。勝った、負けた。色々ありますが、結果ではなく、そこにどうあるのか。どう生きているのか。今・ココ。脚下。すなわち道に力を致すんです。これで終わりです。
(2017年8月)










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