現成公案


  仏(絶対)は、今・ココに在り
 今年に入り毎週火曜日に開かれる火曜座禅会の講席の講本として道元禅師著『正法眼蔵』を拝読しております。その『正法眼蔵』の中、『現成公案』の巻には、小生が出家する一つの円となる、思い出があるのです。
 学生時代、生きる意味・本当の幸せを探し、もがいていた私が、伊豆市大仁の故太田老師が指導していた三千回に初めて参加させて頂いた時の事。時は、春。庭の桃の花が満開でした。坐禅三炷(1回40分~50分の坐禅を5分間ほどの経行きんひんという歩行禅をはさみ3回修行する事。)の後、皆で『正法眼蔵現成公案』の巻を拝読いたしました。
 「諸法の佛法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。万法とともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく、滅なし。……。」
 未熟な、若い大学生の私にもこの『現成法案』の巻には、人生・生死に対する深い何かがあると感じられたのです。
 『正法眼蔵現成公案』の最後の章に、麻浴山宝徹禅師と僧との問答が書かれています。
 麻浴山宝徹禅師が扇を使っていると、ある僧が師にたずねます。
 「風性(佛性)は、いつでも、どこにでも、あまねいていると言われています。どうして和尚は、扇を使うのですか?」師「お前は、風性(佛性)がいつでも、そこにでも周くと言う事を知っているが、その、いつでもとは、いつなのか?どこでもとは、一体どこなのか?分かっていないようだな……」僧「それは、どこでしょうか?(いつでしょうか?)」師は、答える代わりに、ただ扇を使っているだけでした。「コレ・コレ!ココ・ココだよ!」と言わんばかりに。
 佛性がいつでも、どこにでも在るという事は、今・ココに在る(現成)と言う事。それは、扇を使うこと。お茶を飲むこと・飯を食べる事。笑う事・悲しむ事。その事がハッキリ分かると、この世がそのまま佛と佛の世界になります。
 先日、弟子の1人があるセミナーに参加し、その中、講師よりこんな質問を受けたそうです。
一、将来、本当になりたい自分を思い描く事ができるか。
一、その十年後の自分から、今の自分を見て、どう思うか。
 皆、中々将来自分がどうなりたいか言えないそうですね。私は、若い時(僧となってからですが)から、ハッキリ、こうなりたいと言う事ができました。それは、もちろん時と共に少しずつ変わって行きましたが。若い時の私は純粋に、沢木興胴老師・太田洞水老師のようになりたいと思いました。そして中年期、沢木老師、太田老師の姿をいつも担いでいる自分に気付きました。自分が自分として生きるとは。意図的に、今までの修行の臭みを取ろうとしていました。そして今。自己と他己が渾然としている自分が在ります。自己(他己)を深めて行きたい。このイノチを丁寧に養い育てて行きたい。それが将来であり、今の最大の楽しみ事になっています。
 そして十年後の自分が、今の自分を見てどう思うか。それはあきらかですね。
 「未熟だったな~」と。

(2013年8月)

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