唯念上人を懐う

 今から約三十数年前、小生が出家得度(僧侶となる式)した伊豆市堀切・泉龍寺に於いて、大念佛講の法要が修行されました。当時、小僧となったばかりの小生は、生涯を自己の修行と佛法の布教に生き、沢山の人々から尊敬され、したわれた聖人(ひじり)・唯念上人のようになりたいと言う思いを持っておりました。
 大念佛では、唯念上人の高さ30センチメートル程の御木像を御本尊様(泉龍寺では、聖観世音菩薩様)の前・右横に安置。本堂の回りには、唯念上人の墨跡『南無阿弥陀佛』や『火伏せの龍』等…たくさんの掛け軸が掛けられていました。しかし、ほとんどの軸は、状態が悪く、ボロボロに傷んでいた記憶があります。唯念上人の御木像には、いくつかの手縫いの絡子(ラクス)(お袈裟の小さい物)がかけられていました。当日は、朝から、おじいさん・おばあさん達が寺に来てお念佛とお経を読んでおりました。もちろん師匠も小生も一緒に読経致しました。その後皆で食事をしたり、お茶を飲んだりして、一日中寺で遊んで帰って行った事を覚えております。
 師匠の泉龍寺から修禅寺へ転住に隋って小生も修禅寺へ移りました。そして、ここでも、唯念上人の念佛講との縁が出来ました。修禅寺で修善寺温泉場の(ホラ)念佛が開かれることになったのです。(ホラ)念佛では御上人の御木像は、ありませんでした。ただ数本の掛軸を本堂の回りに飾っただけです。しかし、この時も、この掛軸が皆古くボロボロに傷んでいた事を記憶しています。大念佛程の人は来ませんでしたが、おじいさん・おばあさん達が念佛を唱え、読経し、お茶を飲んで帰って行きました。

 修禅寺檀信徒会館(慈照閣)横の墓参堂登口に大きな(2メートル程)唯念上人書『南無阿弥陀佛』が刻まれた石碑が立っております。
 『南無』とは、帰命・敬礼・帰敬などと訳詞、仏に帰依敬順することを言います。
 『阿弥陀佛』とは、略して、弥陀。西方極楽浄土に住む仏で浄土教の本尊。この仏を信じ、その名号を唱えるものは、その願力によって必ず極楽浄土に往生すると言われております。
 小生の学生時代。食養の教えと仏教を教えていただいた沼田勇先生は、よくこんな話をされていました。「阿弥陀の阿とは、否定の語です。すなわち『無』。弥陀とはメジャー。量とか長さを言います。すなわち阿弥陀とは、長さ・量がない、それで無量と訳されるわけです。無量とは永遠の事です。永遠とは、長い時間、大きな空間ではありません。始めもなく、終わりもないものなのです。時間でない時間。・空間でない空間。永遠とは、『今・ココ(而今(ニコン))』のことなのです。『南無阿弥陀佛』と唱える事は、今・ココ、すなわち永遠と一になること・それは、坐禅と同じ事なのですよ。」と。
 江戸時代の末期、命懸けで道を求め、南無阿弥陀佛の念佛行の布教に一生を費やした唯念上人を尊敬して止まない小生は、できるだけ長く、この念佛講が続いてほしいと願っております。そして念佛講の為何か御手伝いできる事があれば、よろこんでさせて戴くつもりでおります。

【唯念上人】
 唯念上人は寛政元年(1789)肥後国(熊本県)八代の藩士滝沢家に生まれ14歳の時に江戸に出、下総国(千葉県)徳願寺弁瑞上人の弟子となり、22才師に従って北海道大白山善光寺に入り、後には諸国を遍歴しながら山籠り苦行を続けた。
 たまたま上人が甲州(山梨県)で年老いた尼と出会い「ここより巽(南東)の方に当り霊地あれば尋ね行きて修法せられよ」と教えられ、又富士山で修行中、義賢行者に「左合わせになっている山がある、そこで行をした方がよい」とさとされ明神峠(山梨・静岡の県境)の麓を探し求めた結果、奥の沢の谷を見て「ここぞ」と思い道場とした。
 昼間は岩の上に座して念佛を唱え、夜は体を横にせず岩壁によりかかって目を閉じ修行し、蕎麦粉を水でこねたものを常食とした。
 上人は草庵が出来てからも折りをみて近国を廻り、仏の道を説き、念佛講をつくり、又人々の安穏を祈るため「南無阿弥陀佛」の名号塔(石碑)を辻々に建て「龍」の字を書いた火除のお札をくばり、人々の難を救った。
 念佛のためには身命を惜しまず、村人や信者の鬼難を救って尊ばれた上人も明治13年8月23日91才で眠るが如く大往生を遂げた。

 
 

(2016年1月)

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