すべての存在は、而今(にこん)(今・ココ)にある。いや而今(にこん)にあり続けている。生きとし生けるものは、今・ココに生きている。生き生きと。人間以外は。
 人は すき去った過去を思い出し、まだ来ない未来を想像する能力を授けられた。今・ココをより良く生きるために。しかし過去を思い出し、未来を想像し、考える能力を肥大させた結果、時としてナマの生命を刻む、今・ココに生きることができなくなってしまった。過去を反省し生きることに繋げる代りに、過去を悔やみ、打ちひしがれる。もう二度と戻らないのに。将来に(がん)(目標)を持ち力をつくす代りに、失望し、悲観し生きる勇気をなくす。頭でっかちになってしまったのである。
 人は いつも自分に都合のよい幸福をさがしているようだ。さがしているから見付からない。幸福は、いつも脚下・足元にある。今・ココをどう言う心構(こころがまえ)で、どう生き切るかにつきるのだが。
 私は、自然が大好きだ。動物も、鳥も、魚も、ヘビも、クモも、植物も、岩も、石も・・・・・・。特に一緒に生活している動物達をよく観察する。動物達にも過去・未来を想い考える能力はある。自己の存在・生命に直結する過去の出来事は、よく覚えているようだ。生きるために。悲惨な過去を想い悩み、自ずから生きる事をやめた犬を知らない。絶望的な未来を考え生きる勇気をなくした猫を見た事がない。病気の時も、苦しい時も、寒い日も、暑い日も生命(いのち)つきるまで生きようとしている。
 私は、今六十四歳。四十年間毎日坐禅を続けている。時に一日中坐る修行もある。坐禅修行を続ければ続ける程、正直人類の将来が悲観的に観えてくるのである。私も一人の人間なのに。
 人は、自然界を自分達の都合のよいように作り変える。自分達の欲望のため。人は、この地球上でどこへ向って行こうとしているのだろうか。
 私個人の存在は、小さいものだ。未熟であり、力もない。しかし自分の回りにある自然・生命(もちろん人も含めて)を守りたいと思う。生命(いのち)つきるまで生かさせてやりたいと思う。
 寒い冬が終り、修禅寺境内の桜が満開になり、そしていつのまにか散ってしまった。ツバメが帰って来た。私が修禅寺へ入山して早十年が過ぎ、平成の時代も終った。天地は、刻々と移り変わっている。我々の都合など考えなしに。悩んでいるヒマはない。立ち止まっているヒマはないのである。

生命乱れて盛んなるよりは
 むしろ固く守って滅びよ

〈能楽師 山本東次郎先生の言葉〉

(2019年8月)


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