修禅寺では、毎朝五時から約四十五分間の坐禅を修行している。一年中休みなく。
 私は、今六十四歳である。二十四歳の時に僧侶になったから、四十年間、ほとんど毎日坐禅をしている事になる。時に一日十時間以上坐し、一週間程続く接心(せっしん)とと言う修行期間も百回ぐらいは、経験しているだろう。
 初めての坐禅の時、先輩から背すじを立て、腰を弓なりにグッと伸ばし(いわお)のごとく山のようにビクリとも動かず(すわ)れと指導された。そしてそう(すわ)ってきた。長い間。
 回りの人からよくこう言われた。「すばらしい坐相ですね。坐禅の姿が、本当に綺麗だ。」と。私もそう言われるとうれしく得得と坐っていた。巌の如く、山のように、まことに堅い坐禅でありました。意識的にも、全ての動きを止めてしまおうと思う堅いものでした。
 五十歳を超えたころより、身体のあちことが痛くなってきました。首、腰、ヒザ…等。身体に(ゆが)みがあるように感じたのです。
 自然界の姿を考えて下さい。春は春の姿があり。夏は夏の姿。秋は秋の、冬は冬の自然があるように。自然界は常に移り変っている。私という存在も移り変っているのだ。二十代、三十代…そして六十代と。頭の中の思いは、これはこうだと固定してしまうが、ナマの身体で今、ココを刻む坐禅は、二十代、三十代…六十代と変化しているのだ。
 坐禅は背骨を積木のようにまっすぐ積み上げなければならない。そして、その積み上げた背骨の上に頭を乗せる。この時、力を使ってはダメだ。力を抜かなければ。身体のリキんでいる箇所で体を流れる気が滞ってしまう。そこから先へは、気が流れなくなってしまう。背骨をリキまず、まっすぐに積み上げ、その上にヒヨッと頭が乗ると(いき)は、下腹まで自然に入る。下腹に自然に気が満ちてくるのである。坐禅中、自分の身体を丁寧に観察して力を抜くこと。どこまで力を抜くことができるか、それが坐禅の重要な(かぎ)だ。力が抜けると、体内の動きが分る。心臓の音、血液の流れ…等。体の中は、休みなく動いている。その流れに随って(かす)かにゆれている自分が分る。青山常運歩を理屈なしに感じる。
 いつもは、修禅寺からは、聴こえないと思っていた桂川の流れる音が坐禅中かすかに聴こえる。少しの空気の流れの変化も感じる。自分が自然と近くなる。自分が自分になる。自己が自然と一つになるのである。
 深い呼吸をするためには、(ちから)を抜かなければならない。いや自然と抜けなければならない。抜かなければ、見えるものも見えない。聞けるものも聞こえないのである。自分と言う思いに縛られてしまって。
 坐禅を続けていると自己(自然)が深まり、拡大して行くようだ。際限なく。私は、死ぬ時まで坐禅を続けようと思っている。

而今(にこん)(今・ココ)の山水は、
古佛の道現成(どうげんじょう)なり。ともに法位に住して
究尽の功徳を成ぜり。
〈正法眼蔵山水経より〉

(2019年1月)


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