父(生死は仏の御命)


 今年4月21日、修禅寺弘法忌(弘法大師の命日)の日、午後4時過ぎ父が亡くなりました。八十五歳でした。

 亡くなる2ヶ月程前、息苦しいと言いながら一人バイクを運転して病院へ行きました。そして検査入院。一週間程で 酸素のボンベを引きながら家に帰って来ました。粉塵の多い職場で働いていたための職業病。塵肺症との事でした。
 病院の先生は、酸素を取り入れる為、少々不自由にはなるが、日常生活には、何の問題もないという事でしたが、それまで元気だった父には、ショックが大きかったようです。誰から聞いたのか、本で読んだのか、私にこう言うのです 。「この塵肺症は治らないのだ。こうして死んでいくんだな~。」またこんな事も言っていました。「生死は佛の御命と言うが、死んでオマエや母さんと会えなくなると思うと、寂しいな~。」と。そのつど私は、「先生は、そんなに悪くないと言っていたし酸素ボンベを引きながら、修禅寺へ御参りに来る人もいる、大丈夫だよ。」と答えておりました 。外出好きな父が、一日中家の中に居るようになりました。
 それから一ヶ月。定期的な通院の時、父から先生に入院したいと言ったそうです。そしてその夜、一回目の危篤状態 におちいりました。肺炎でした。そして一週間後、何回かの危篤状態をくり返し、帰らぬ人となりました。
 若い時の父は、自分にも他人にも厳しく、少々気の短い所がありました。会社で上司とケンカして何回か会社をかえたようです。当時の近所の人は、父の笑った顔を見たことがないと言っていましたし、父の咳払い一つで私と一緒に遊んでいた子供達が静かになりました。そして父が、こう話していた事を覚えております。「オレは死ぬ事が怖くない。そういう教育を受けて来たんだ。」と。昭和三十三年、狩野川台風の時、狩野川の川岸に住んでいたわが一家は、サイレンの音を聞いて近くの避難所である旅館へ逃げました。しかしこの時、父は逃げませんでした。「オレはこの家を守って死ぬ。オマエラは逃げろ。」と言っている父の姿をかすかに覚えています。台風がやみ、家に帰ると、無事であった家の中で、父は寝ておりました。しかしこの台風で対岸の集落は堤防が決壊し全滅してしまったのです。
 父が私の成長を見守ったように、私も父の人間的成長を見ておりました。若い時、尖った錐の先のような父が、少しずつ円くなっていくのを。晩年は、穏やかで時に人を食ったような事を言って皆を笑わせる、そんな人になっておりました。禅語に『閑古錘』という語があります。晩年の父は、少しずつこの閑古錘に近づいていったようです。

徳雲の閑古錘、
幾たびか下がる妙峰頂
他の痴聖人を傭(やと)って、
雪を擔(にな)って共に井を填(う)ム
  父は、まだまだ雪を擔って井を填む底には、程遠い人でしたが、できればもう少し長く父の生きざまを見ていたかったと残念でなりません。
 父がいなくなり寂しくなったかと問われると、それは寂しくなりましたが、実の所、いつでも、どこでも父が私を見て微笑んでいる感じがするのです。

(2010年9月)

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