迷う時は迷う
修禅寺では、毎週火曜日どなたでも参加して戴ける坐禅会を開催しております。午前九時受付け。九時半より約四十五分間の坐禅。十時半頃から小生が禅語録を読み、講義をしております。今、読んでおります語録は、『道元禅師語録』。その中に次の文章があります。
上堂。
挙す。
僧、
京兆の
華厳休静禅師に
問う、「
大悟底の
人却って
迷うとき
如何」。
休静云く、「
破鏡重ねて
照らさず、
落花枝に
上り
難し」。
師曰く、
永平今日華厳の
境界に
入って、
華厳の
辺際を
廓かん。
事已むことを
獲ず、
両片皮を
鼓く。
或し人
有って、
大悟底の
人却って
迷うとき
如何と
問わば、ただ
伊に
向道わん、
大海若し
足ることを
知らば、
百川応に
倒に
流るべし、と。
ある僧が華厳休静禅師に問います。「悟りを開いた人が迷う時はどのようでしょうか?(悟りの人は、迷うのでしょうか)」と。休静禅師は云われます。「破れた鏡(迷った時)は照らす事はできない(迷いぱなしだ)。枝から落ちた花(迷った時)は、もう枝にはもどれないぞ(迷う事だ)」と。
修禅寺へ入山して早一年半が過ぎようとしています。 しかし、正直まだまだ迷う事ばかり。そしてついに、こう腹に決めたのです。『迷う時は迷う。何が悪い!!』と。
先日、ある新聞社の取材を受けました。「御住職は、この修禅寺をどのような寺にしたいと御考えですか。御住職の夢は、何でしょうか?」と。実の処、この修禅寺をこのような寺にしたいと言う夢はありません。もちろん奥之院護摩堂再建。山門の修復。裏山の整備等……やらなければならない事は沢山あります。そう、できれば専門僧堂の復活も。しかし、これらも、私の真の夢、願いではありません。
私の本当の夢、願いは別の処にあります。それは、
一、今・ココに誠を尽くす事。
二、死ぬまで坐禅修行する事。修禅寺へ入り、御付き合いをする方々の数も多くなりました。また不慣れな観光、伽藍整備、寺の経営等までも目を通さなければなりません。迷う事も多くなりました。
私の一番の願い、今・ココに誠を尽くす。その誠を尽くすという働きの中に迷うという事もふまえております。そう、迷う時には誠を尽くして迷う。
道元禅師様は、語録の最後にこう言われています。「もし大海が水で一杯になり、その水があふれ出たら、世界中の川は、さかさまに流れなければならなくなるだろう。」と。川の流れが下から上に向ってさかさまに流れる事は、絶対にありません。それは、『大悟底の人は迷う事がない。』などと言う事も絶対にないと言う事です。
迷う時は迷う。悲しい時は悲しい。楽しい時は楽しい。ただ今・ココと一つ。今・ココに誠を尽くす事だけですな。今回の小生の話は、少々理屈っぽくなりました。
迷を
大悟はするは諸仏なり。
悟りに
大迷なるは衆生なり。
<正法眼蔵・現成公安より>
(2011年1月)