一遍上人に思う
六月六日。修禅寺仏教婦人会の研修旅行で藤沢市にある藤沢無量光院清浄光寺・通称『遊行寺』へ参拝致しました。
遊行寺は、一遍上人を開祖とする遊行上人第四代呑海上人を御開山とする寺です。遊行寺の博物館の中に一遍上人が立つ古い掛け軸と一遍上人が書かれたと言われる六字名号『南無阿弥陀仏』の軸がありました。その軸の前に立つと、大きな力につつまれている自分を感じるのです。
小生、いつのころからか、歴史上の名僧の中で誰が好きかと問われれば、「一遍上人」と答えるようになりました。
すべてを捨て
賦算(お念佛の札くばり)の旅に出られました。裸足で山河大地を歩き。野に臥し。
貴賤を問わず多くの人々(時衆)と共に
南無阿弥陀仏を称え、時に喜びのあまり踊り出してしまう。そんな一遍上人が、大好きなのです。十六年間におよぶ
賦算の旅はきびしかったでしょうね。
皆が、まずしい時代、暑さ寒さの中を
衣一枚をまとっての旅なのですから。
○身をすつるすつる心をすてつれば おもひなき世にすみ染の袖
○こころよりこころをえんと
意得て 心にまよふこころ成けり
○おのづから
相あふ時もわかれても ひとりはいつもひとりなりけり
○いにしへはこころのままにしたがいぬ 今はこころよ我にしたがえ
○旅ごろも木の根かやの根いづくにか 身の
捨られぬ処あるべき○となうれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ佛
一遍上人の沢山の言葉の中『南無阿弥陀仏』という所を『只管打坐(坐禅せよ!)』という語にかえると、そのまま禅の教えになるようです。
○ある人
問云ク「上人御臨終の後、御跡をばいかように
御定め候や。」上人云ク「法師のあとは、跡なくを跡とす。」
○「わが門弟子におきては、葬礼の儀式をととのふべからず。野に捨て獣にほどこすべし。」
○「よき道者(修行者)とは、死するさまをあたりにしらせぬ事ぞ、わがおはらんをば、人のしるまじきぞ。」といひしに、はたして御臨終。その御詞にたがふ事なかりき。
表・裏なく一生を『
捨聖』・『
遊行聖』として生きた一遍上人の御言葉に接する時、おのずから襟を正すと共に大きな勇気を戴く思いがいたします。
○御往生のまえ、人々最後の法門を
承らんと申しければ「他阿弥陀仏(弟子・真教のこと)・南無阿弥陀仏はうれしきか」とのたまひければ、真教落涙し給う云云。
「真常!日々の坐禅はうれしきか」
我が師の声が聞こえてくるようです。
南無阿弥陀仏
なむあみだ仏
(2012年8月)