いつでもどこでも佛さまといっしょ
道元禅師さまの著書、『
辧道話』の冒頭に
『諸仏如来、ともに妙法を単伝して、
阿耨菩提』を証するに、最上無為の妙術あり。これただ、ほとけ
仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち
自受用三昧、その標準なり。』とあります。
諸仏如来が、まじりけなく伝へた法。そしてそのお悟りは、自受用三昧であると言うのです。さて、この
自ずから受用する三昧とは?
まず『三昧』とは、国語辞典には一、雑念を捨て、精神を集中して乱さないこと。二、あることに熱中する意。また、とかくその方に一方的に心が傾き、心のおもむくままにそれをする様子を表す。とありますが、佛法では、法(絶対)と一つ。佛さまと一つになる様子を言っています。サマーディ(梵)の意写。定・等持とも訳します。
『自受用三昧』とは、我々の思慮分別にかかわらず、自ずから佛さまと一つと言う命を受用(受け用いる)する様子。この事を、佛さま方が、お悟りになり、伝へたと言うのです。簡単にいえば、「いつでもどこでも佛さまといっしょに居る。」と言うこと。私が、今・ココに在るとは、佛さまといっしょに在ると言うことなのです。すきまなく。まじりけなく。
八十八ヶ所巡礼等でお遍路さんが着る
笈摺の背に『同行二人』と書いてあります。この二人とは、私と弘法大師さま(佛さま)の事です。一人で巡拝していても、必ず弘法大師さまと二人ですよと。
八十八ヶ所巡礼等は、期間と場所を限って修行されますが、実を言うと、我々の一生が巡礼であり遍路の修行の旅なのです。そして同行二人の。
この『同行二人』を別の言葉で『自受用三昧』と言います。我々の生活、私の一挙手一投足、一息一息は、同行二人であり、自受用三昧なのです。それだから安心してガンバレば、いいのです。精一杯生きてみればいいのです。私が私の場所(今・ココ)で誠を尽すことが、佛さま方・弘法大師さまに誠を尽すことなのですから。
これらの事は、「そうなのだ。」と言われても。教えられてもなかなか納得いかないでしょうね。自分でハッキリ悟らなければ。
そんな訳で、私は坐禅をおすすめしています。坐禅そのものが、この自受用三昧に遊ぶものでありますが、坐禅をすると、この自受用三昧・同行二人がハッキリ分かる事も確かです。
今、私が住職している修禅寺は正直、観光寺院としての面が強いと思います。もし、修禅寺が観光客の受け入れをやめ、観光に関するイベント会場としての場所を貸せる事をやめたら。市・町の沢山の人達が困ります。観光・修禅寺は、この地域に生活する人々と密接に関係しているからです。
沢山の観光客に来て戴くため、イベントを企画したり、境内を整えたりする。それも大切なことですが、そう言う事ばかりに力を費やしていたら、きっと修禅寺に人は、来なくなりますね。境内に入った時、凛とした空気を感じる。すがすがしい、明るい気を感じる。そう言う修禅寺でなくなったら。
修禅寺が、寺としてあるべき姿としてあるために。山内の者は、日々の修行に精進しなければなりません。毎朝五時からの坐禅。五時四十五分からの朝の読経。八時からの境内清掃等………。
また、毎晩、小生一人で坐禅、立禅をしています。正直、この夜の時間が、一日で一番至福の時なのです。
もし、集客や外面だけの客へのサービスに走り、この修業の時間さえも取ることができなくなった時、寺へ来る人、観光客さえも減少していくでしょうね。その前に坐禅する時間さえ取れない寺では、一番に小生が出て行きますが。
どんな物もどんな人でも、真実を求め、そしてそこに生きたいと思う心があると確信しています。そんな人達の心の拠り所となる寺でありたいと思っています。
『いつの世にも、義のために死するを武士という』
この言葉をある本でみつけました。
『いつの世にも、法のために死するを出家・僧という。』
と読みかえてみたいと思います。
(2014年1月)