休歇なる悟迹出ならしむ
昨年の十月は、一ヶ月間に十回の葬儀を執り行いました。これは今迄にない記録的なことです。
それもその中の一つは、修禅寺四十二世大全德潤大和尚。すなわち先代住職の葬儀なのですから。
日常予定された沢山の行持がある修禅寺の事。その中に謂わば、強制的に分け入ってくる、突発的行持が葬儀なのです。それが十回も。
葬儀の中、導師が唱える引導法語があります。
それは、故人の生涯。すなわち泣いたり、笑ったり、成功したり、失敗したりの人生、
その全てが、何から何まで佛様と共にあり、お悟りの表れである事を言っています。自分には、都合の悪い事さえも。
そして、故人がこの世を去った今、佛様と共にある時と場所は、まさに即今当処に現成されている事をも言っています。
すなわち、而今の風光。今・ココの山河大地に。
正法眼蔵・現成公案の巻の中『悟迹の休歇なりあり。休歇なる悟迹を長長出ならしむ』とあります。
悟りの迹をやめる。悟り臭いようでは、ダメだと言うのです。
真の悟りは、悟り・迷いと二つに考える・頭の中の分別智上の事ではありません。
いつでも、どこでも。
すなわち、今・ココで佛様と共にある事に気付くことなのです。我々は日々、悟りの上に迷い。喜び、悲しみ、涙しているのです。もしその事が本当に納得できたなら、安心して生きる事ができます。
すなわち。安心して迷えもしますし、悲しむことができるのです。
『長長出ならしむ』とは、死ぬるまで、休歇なる悟迹(佛様と一つの日常)を精一杯生き切る事なのです。
心は、行動となり
行動は、習癖を生む
習癖は、品性を作り
品性は、運命を決する
この言葉を本で読みました。
六十年間生きてきて、まったくその通りだとガテンしています。
十代の私は、何をしたらいいのか。
生きる目的・指標等何もありませんでした。
二十代、太田老師と出会い、老師のようになりたい一心の私は、坐禅に力を致しました。
三十代、修行道場での生活も十年を過ぎ、僧としての自信も付きました。
そして四十代、皆と共に在ると気付き、修行(悟り)の跡を消す事を考えました。
五十代、修行道場の先生として、立ちましたが、まだまだ未熟、張りぼての虎でした。
六十代、少しずつ柔らかくなり、一生修行だと確信いたしました。そして……… 楽しみですね。
この世を去る時まで。
(2015年1月)