世尊指地(御誕生寺僧堂での提唱録)
御誕生寺僧堂堂長・師家 吉野真常
これからの話しを提唱という。私はそういう言葉を使っています。ひっさげて唱える。何をひっさげるのかと言う事。講義ではない、法をひっさげて唱えるのです。しかし法と言う物はないんですね。一毫の仏法なしですから。法は、今・ココすなわち而今。それは自己です。今・ココにある自己は、移り変わって行く無常の当体です。ですから、自己は無いとも言えます。
足利柴山老師だと思いますが、たしか、この方は百一歳まで生きられました。老師の晩年、病気かなにかで寝込んでいる時、参禅者の方が御見舞に来た。老師を励ますつもりで「また元気になっていただいて。私達は老師の提唱を楽しみにしていますから。」とか言った。そしたら柴山老師寝ながら、「大丈夫だ、今、ここでやるから」と言ったというのです。私は、今日この
従容録第四則・
世尊指地という祖録をお借りして、法をひっさげてお話しをいたします。
「
衆に
示して
云く、
一塵纔に擧げれば大地
全く
収る。
疋馬單槍、
疆を開き土を
展ることは
便ち。
處に
隨て主と作り、
縁に
遇うて
宗に
即する
底なるべし、
是甚麼人ぞ。」
これは
万松禅師の
示衆です。「一塵
纔に
擧れば大地
全く
収る」と。禅には、こういう語が沢山ありますね。
毛巨海を
呑み、
茶須彌を
納る」とかね。「有時は、一莖草を拈じて丈六の金身と
作す」とか。
何をもって一塵とするか。私や皆様。山や川の事です。そこに大地、すなわち天地宇宙が
納まっている。般若心経では色即是空と言っています。色とは、一塵。空とは大地。それが別物ではないんです。だから
即と言った。それは、
是。今・ココのようすです。
現成ハ
公案ナリ・大悟ハ現成ナリ・諸法ハ実相ナリ・
百雑砕。今・ココの一つ一つが佛様としてある。絶対の物としてある。
一塵がです。
疋馬單槍 疆を開き土を展るとは、
即ち
處に
隨て主と
作り、縁に遇うて宗に即する底なるべし。」
疋というのは何匹と言うこと。動物を数える時の。單槍とは一本の槍です。だから一匹の馬と一本の槍だ。
疆というのは
境。領土の境のこと。土というのは土地です。土地を展る。仏様と一つの人の働きぶりです。大悟現成底の人のようす。今・ココに誠を尽す人のありようです。皆、今・ココの二度と戻らない絶対の所に居るのだけれども、肚が決まらない。よく分からない。そこに居てウロウロしている。ああだ、こうだ。儲かる、儲からんとかね。鳥飛んで鳥の如く、魚行いて魚に似たりという語があります。人間以外は、皆、今・ココを精一杯生きている。人は、今・ココに
在る自己。それも瞬時に移り変っている無相の自己に何かを付けて、儲かる、儲からんとか、悟りだ迷いだ言って、せっかくの戻ってこない今を、無常の当体の自己を生き切れない。精一杯、生き切っている人、その人を疋馬單槍、疆を開き土を展る人と言うのです。
隨所に主となるとね。
浄土真宗の開祖・親鸞上人は、こう言われています。「地獄は、一定すみかぞかし」と。また『無関門』の著者、無門慧海禅師は、「生死
岸頭に
於いて大自在を得、六道四生の中に向って
遊戯三昧ならん」と言っている。禅の語に「地獄へ行って鬼と遊べ」と言う語がある。輪廻しない、そこに居る、そこを逃げない。
「處に隨て主と
作り、縁に遇うて宗に即する底なるべし」。宗は法のこと。作法是宗旨と言うでしょう。作法とはお行儀習いじゃないんです。威儀即仏法。四威儀とは、行住坐臥。すなわちいつでも、どこでもの事。それは、今・ココのようすです。
「仏性の義を知らんと欲せば、まさに時節因縁を観すべし」と涅槃経にあります。今・ココは時節因縁があらわれ出た処・仏性の義を知る時節因縁は、今・ココ、直下にあるんです。正法眼蔵・大悟の巻に「佛佛の大道つたはれて平展なり」とある。今・ココ即処に仏性の義がある事を知る時、綿綿密密という事がハッキリ分る。「大悟現成し、不悟至道し、省悟弄悟し、失悟放行す、これ佛祖家常なり」と大悟の巻は続く。悟った時、悟りという特別な物はいらない。私は少年時代、体が弱くて背も小さかった。しかし柔道が大好きだった。始めに受け身を学んだ、しかし受け身のやり方を頭の中でいくら知っていても、使えない。何回も練習して、それを忘れなくては使えない。投げられる時、受け身をしようと思っていたら、受け身はできない。
悟った時に悟りは無いと分る。私は、以前臨済宗にもおりました。悟りを大切にする臨済宗も、実は悟りがないのです。道が分った時に。道を悟った時には。大悟現成なんです。「茶に逢うては茶と喫し、飯に逢うては飯を喫す」とか「
東司上不説佛法とかね。
甚麼人。なに人。
甚麼と書いてある。什麼人でもなに人と言う。この間香積寺の風外禅師の
頂相を見たら、風外禅師、自分で
賛を書いていた。「
是什麼人とね。いいね。什麼人とは、法の人の事。
今・ココは決った形がない。そして一度きり。だから実相は無相。移り変わって行く。これだなんてない。それを真常(私の名前)と名付けた。今・ココの自己を絡め取って名付けた、それが真常です。事実は移り変って行く。瞬時に。「
驢事未去馬事到来です。今・ココは。そして皆・そこに居るのです。そしてその事がハッキリ分った時に、今・ココに誠を尽くす事ができる。
本則に入ります。「
世尊衆と
行く
次いで」この所の万松禅師の
著語が面白い。「他の
脚跟に隨って
転ず」と。ウロウロしてるわいとでも言うかな。他の
脚跟に隨ってるのも「縁に逢うて
宗に即する底」いつでもどこでも隙間がない。綿々密々。「手を
以て
地を
指して
云く、
此の
処宜しく
梵刹を
建つべし」と。ここに梵刹を建つべしと言った。梵刹とは、寺の事です。寺ってなんだろう。
住持職と言うけれども。住持の持は、
手偏があるんです。寺に住んでいるから住持じゃない。
天桂禅師は、ひどい事を言っている。最近の住持には手偏がないと。住持とは、佛・法・僧の三宝に住し、護持した人。その人の居る所を寺と言う。住持三宝。三宝は、一体三宝。仏法僧は、別々でない。一つもの。一つ一つの側面から見ると違うように見えるだけです。そしてそれは現前三宝。大悟現成。道に気付いた人なら、今・ココ即ちいつでもどこでも綿綿密密に法はある・曼荼羅です。佛と佛の世界。「
帝釈一茎草を
将って地上に
挿しはさんで
云く、梵刹を建つることは
巳に
竟んぬ」。はい建てましたよ、と。
私は昔よく海外へ行きました。恐れ多いね。禅を多少学んだだけで。今考えると本当に恐しい。海外で坐禅したり法話をしたりしていたんですから。よくカトリックの教会や修道院で御世話になりました。その時、私よく神父様方に尋ねたんです。「いつ、どこでイエス様とお会いしますか?」と大体、教義的な理屈を言うんですね。キリスト教の隠遁者の言葉にこうある。「私の中に神様がお住みになると、私は祈りを止められなくなる。私が寝ている時も笑っている時も食べている時も祈りとなる。」どこでイエス様・神様とお会いしたか?綿々密々です。いつでも、どこでもです。いつでもとは、いつなのか?どこでもとは、どこなのか?今・ココなんです。今・ココで、イエス様・神様と一緒なんですね。戒律というのも、本来そこから見るべきでしょうね。いつでも、どこでも。それは、今・ココで佛様と一つかどうか。仏の
御命を生きているかどうかで。
「一茎草を将って地上に
挿しはさんで云く、梵刹を建つること巳に竟んぬ。」この著語に「
修造易からず」とある。簡単ではないぞと。大燈国師もそれを言ってる。金ピカな大伽藍を建てようと。人を沢山集めようとも、それだけでは、我が子孫にあらずと。
それを聞いて「世尊
微笑す」。次に「
頌に
云わく」。
宏智禅師様の頌です。「百草頭上無辺の春」万松禅師の著語に「來山
猶お
在り」とある。來山さまの御言葉にあるんですね。百草と春は一つ。無辺の春は、どっかにあるんじゃない。百草頭上に表れている。無辺の春は百草頭上。百草頭上すなわち百雑粋に無辺の春。絶対が現れているぞと。「手に
信せて
拈じ
来って
用い
得て
親し」。もう今・ココにあるんですから。自由自在です。
宗門は、威儀即仏法と言う。四威儀・行住坐臥が法と一つ。隙間がない。何か仏法の特別な威儀や作法があるわけではない。すき間なく法と一つ。著語に「荒田に入って
揀ばず」。何から何まで、どういう状態にあっても、どっちへどう転んでも、法と一つ。
私は、学生時代、すごく悩んでいた。本当の生き方は何か。何が真実なのか、とか。頭でっかちで、眼前の事に力を致すことができなかった。努力の仕方が分からなかった。
願が無いんだから。白隠さんの言葉に「禅は諸道に通ず」というのがある。「辧道」という言葉もある。辧とは、つとめる。努力する。力を致す。という意味。道に力を致す。道は脚下にあるんだから。今・ココのやるべき事、眼前の事に力を致す。昔は、勝った負けたとか、生きがいがどうとか、人の顔色を見て、親に言われて、フラフラしていたね。先生方も親も、道に力を致すと言う事を、言ってくれなかった。そしてその姿を見せてもくれなかった。皆すきまだらけな気がした。
お坊さんになった時、始め太田洞水という師に付いた。そしてその方が大好きになりました。そこには、辧道があった。その方は、道に力を致すことを言ってくれた。彼は、体に弾が七発通っていた。第二次世界大戦で受けたもの。それから肩から背中まで切られていて、体中傷痕だらけだった。お会いした時、ウロウロしている自分が情けなかったね。そして生きる事、どう生きたらいいのかを教えて戴いた。
今・御誕生寺にて板橋禅師様とお会いしている。本当に勉強になります。道に力を致すことを続けていると、こうなるという。生きた見本です。まず、理屈が無い。生きる事を喜んでいる。そして優しい。そして囚われない。禅師様は本当に優しくなった。昔から比べると。私が修禅寺から来ると、いつも「ありがとよ。ありがとよ」なんて言ってね。本当に「喜心・老心・大心」。毎朝四時半から坐禅・夜坐も。日に三回の飯台も大衆と一緒です。接心の時も、来客中は無理だけど、帰るともうすぐ坐禅に出てくる。私は、今六十二才ですが、本当によい師と御会いできたと思っています。禅師様のすごさは、表面からは、なかなか分らないでしょうね。
次に「丈六の
金身功徳聚、
等閑に
手を
携えて
紅塵に入る」と。丈六の金身功徳聚を携えて、紅塵に入っていくんだ。「自ら
瓶を
携え
去って
村酒を
涸い。
却って
衫を
着け
来って
主人と
作る」という言葉があります。まあ自由自在だ。私が住職している修禅寺も観光客がいっぱい来る。そこで「丈六の全身功徳聚」が分からなければ本当にグジャグジャになってしまう。寺の中の者が、きちんと坐禅して今・ココの道に力を致す。それは
外さないで欲しいね。いくら観光客が来ても。道は、決った形なんて無いのだから。
「塵中
能く
主となり。
化外自ら
来賓す」。丈六金身と手を携えて紅塵に入って、そこで
能く主となる。塵中で力を致す。そこで誠を尽す。なかなか、その事に気づかない。皆なんとか逃げ出そうとしてね。
私も坐禅を続けて長い。いろいろな所で接心も沢山した。しかし五十才ぐらいまでの坐禅は硬かった。腰をそり グッと背を伸し、ビクリともしない。そんな坐禅でした。五十才のころ、自分の身体がおかしくなっている事に気がついたんです。風邪を引きやすくなったし、腰が痛くなった。病院へ行ったら先生から「あなたの腰骨は、すり減っている」と言われた。そんな事があって、もう一度自分の坐禅を点検したんです。今は、腰が痛くないし風邪もひかなくなりました。もちろん毎日坐禅をしております。今は、やわらかな坐禅になったと思う。体の中の緊張を感じると、それを取る、するとまた違う所が緊張しだす、それも取る。それから時に心臓の音を聞いたりもしている。体の中は、止まって静かにしていても、動いていますね。その微細な動きに自然に合わせて行くと、本当に楽に坐われる。
丹田などと言うと、そんなの坐禅ではないと言われそうですが、私は、体感があるんです。正直な所。中心とでも言い変えましょうか。中心から同等に力が張り出している。球体のように。中心が分からないと球体が作れない。力がいびつになり腰を悪くする。ねじれができ膝にきます。五十才ごろ迄は中心と言うような体感がなかった。遮二無二坐禅していたからね。
「
化外自ら
来賓す」。化外とは、天子の力が及ばない所、すなわち法の力の及ばない所。そんな所あるのかね。化外・化内と分けていますが。どこへ行っても法の中です。何が来賓するのか。仏様かな。著語に「
令行の
時を
看取せよ」とある。令行とは公案が行われる時だ。もちろん
現成公案。
「
解処生涯、
分に
隨って
足る」今・ココに在る・絶対の今・ココを生きているのに、そこに、何かを頭のなかで付け加えて、ああだ、こうだと言っている。物があるとか無いとか言う事ではない、道の上にいつも立っているという事です。その道の上に立っている事が分れば、道に力を致す事ができる。辧道です。「
未だ
嫌わず、
技倆の
人に
如からざることを」、テクニックではない。ヘタはヘタなりに精一杯誠を尽くす。うまい、ヘタ。勝った、負けた。色々ありますが、結果ではなく、そこにどうあるのか。どう生きているのか。今・ココ。脚下。すなわち道に力を致すんです。これで終わりです。
(2017年8月)