故禅師様を懐う
自分の努力をつくしきれず、途中で休止した者には、その人それぞれの結論と人生観を持つに違いない。余生を思い、生れ変わったらとか、希望を将来に
托すことになるかも知れない。
本当に至り得た人には、あの世も、この世もない。「ただ今」があるだけである。これを「いのち」の実感ともいう。
〈平成二十七年新春 故板橋興宗禅師様の御言葉より〉
令和二年七月五日御誕生寺より板橋禅師様御遷化の知らせを受けた。十日程前に相見させて戴いた時、御軀は、衰弱されていたが御記憶等は、しっかりしている様子でした。
「修禅寺の真常です」とご挨拶すると『今日は、何があるのか』と御尋ねになりました。「
首座法戦式ですよ」『ワシは何をすればいいんだ』「私が導師をしますから、ここで休んでいて下さい」『すまないな~』と合掌されました。
この時、故禅師様と御会いし御話しができる、今生での最後になるかもしれないとの予感がありました。師と仰ぐ人が、一人一人この世から去って行きます。そしてとうとう私の最後の師と仰ぐ禅師様まで……。
長い間、本当によい生きる御手本を見せて戴きました。金沢大乗寺時代の若々しくまだまだ張りのある気まじめな御姿。大衆並役寮様方に範を垂れるかのように坐禅に
力を尽した大本山總持寺時代。そして最晩年の御誕生寺時代。佛法さえ御忘れになったような閑道人。そして死ぬる直前の人としての温かさ、後学を思う師家としての厳しさ、やさしさ。
私は、本当に有難い御方と縁があったと感謝しております。そして、その御縁を戴いた隨身の弟子として御手本の如く、これからの生を
行じていきたいと思っています。
ひとは、心の目指す所に向かって生きる。心の向う所が志であり、それが果たされるのであれば、命を絶たれることも恐ろしくはない。
故禅師様の命日七月五日の夜。ここ伊豆は、大雨大風の荒模様。翌朝二匹の犬をつれて歩いていると道路上に三羽の子ツバメが雨に打たれていた。一匹は、車にひかれすでに死んでいた。二匹も弱ってほとんど動かない。近くには、親鳥の姿もない。頭に着けていたタオルで子ツバメ達の体をふき、タオルに包み、すぐ寺へ帰った。まず保温。半日程はぐったりとし何も食べませんでしたが、夕方近くになり二羽とも取ってきた虫を私の手から食べたのです。そしてぐんぐん元気になり、七月十九日鎌倉二代将軍源頼家公供養法要の日、二羽とも野に帰って行きました。故禅師様の命日と二羽のツバメとの縁。令和二年七月五日は、忘れることのできない日となりました。