禅はいま・而今

  
この文章は令和元年(二〇一九年)十月十日『禅といま』開講二十周年記念講座で講演させていただいたものです。
 こんにちは、伊豆・修禅寺住職吉野真常と申します。今日は「もしかしたら誰も聴きに来ていないのではないか」と心配して来ましたが、沢山いらしていて安心しました。
 まず短い時間ですが坐禅をしようと思います。私のやり方でやりますので、お席に座ったままで結構です。まず右手を上げてみて下さい。うーんと伸ばして下さい。天井までずっと伸びるつもりで、その時、腰も一緒に伸びるように。椅子に座っている尾骶骨(びていこつ)からずっと伸びるように。では今度は左手を伸ばして下さい。次に両手を上げて、伸びる。下から腰で切れないように上にのびる。戻して下さい。手は楽な形でおろしてもいいし、坐禅の時のように法界定印(ほっかいじょういん)を作ってもいいです。口は結んで上の歯の裏に舌の先を付け、息は鼻からしてください。この時、背を伸ばすこと。背を伸ばすと言うとそり腰のようになって腰から伸ばしますが、腰で切れないように尾骶骨から伸ばしてください。すると背骨がまっすぐになる。そして呼吸がスーと下腹部まで入ってくるはずです。いまの人は、本を読んだりインターネットを観たりすることが多い生活ですので、両乳の真ん中どころにある中丹田(ちゅうたんでん)をちょっと上げた方がいい。ここを 上げると首が上がりますので、その上に頭をポンと乗せる。目は静かに緊張しないよう半分程開く。首はまっすぐです。では坐禅をします。
……しばし沈黙          
    チリーンと鈴の音三つ……

 静かに目を開けて下さい。坐禅の時、どこにも力を入れない。できるだけ、力を使わない。力を入れるというのは、自分勝手なんです。力が入っていると、そこで気が止まってしまう。全身に流れなくなる。気の滞りがあると身体は一つにならない。今、ちょっと坐禅をして、身と心をほぐしました。
 実は、何を話そうかと今朝まで悩んでいました。その時思い出した話しがあります。イタリアのアッシジにいたカトリック修道士、セント・フランチェスコのことです。私は、小さい時からこの聖人が大好きだったんです。ある時、フランチェスコの弟子のセント・アントニーオが師に「人々に話しをしなければいけないのですが、どう話していいか分かりません。」と尋ねた。その時フランチェスコはこう答えます。「心配はいらない。神があなたの口を通して話しをされるから。心配はいらない。神の愛について話しなさい。」と。私も今日は、仏様が私の口を借りてお話しされるのだと思います。
 この集まりは「禅といま」という主題を掲げていますが、私は演題を「禅はいま」としました。「禅のいま」というと「禅」というものがあって「いまはどうだ」ということになりますが、実は、「禅」とは「いま・ここ」の事だということ。道元禅師様の書かれた『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』に「現成公案(げんじょうこうあん)」という巻があります。公案とは、法・禅のこと、絶対の事を表した言葉です。それが現成、「いま・ここ」に現れているということです。「大悟現成」という言葉もありますね。
 修禅寺では、毎朝五時から坐禅をしています。三六五日休みなしで。また毎週火曜日の午前九時半より坐禅会を開いています。この坐禅会では、初心者の方にも丁寧に坐り方など教えます。一炷(いっちゅう)坐った後に私が『正法眼蔵』のお話しをしています。

絶対のいま・ここを生きる

 『正法眼蔵』「大悟」の巻に、こう書かれています。
 
仏仏(ぶつぶつ)の大通つたはれて綿密なり。祖祖の功業(くぎょう)、あらはれて平展なり。このゆえに大悟現成し、不悟至道し、省悟弄悟(ろうご)し、失悟放行す。これ仏祖の家常(かじょう)なり」

 「仏仏の大道つたはれて綿密なり」とは、仏道は、綿綿密密に隙間なく伝わっているということ。「祖祖の功業あらはれて平展なり」とは、祖師方や仏祖方の功徳はここに平たく普通に現れているということ。道は脚下(きゃっか)にあるんですね。それは「いま・ここ」にあるということです。「いま・ここ」に、いつでも、どこにでもあるのですから、もう道に至っている。大悟なんていう特別な言葉はいらない。私がここでお茶を飲んで水を飲んで皆様に話しをしている。大悟を使いぬいている。また使っている。生きていること自体が大悟そのものですね。
 私が存在するということは、「いま・ここ」にあるということ。「いま・ここ」は、私が本当に存在している場所です。しかし、厳密に言うと「いま・ここ」なんてない。「いま・ここ」と言っている時には、もうそれは移り変わっているから。「いま・ここ」はあって、ない。英語で言うとing進行形です。吉野真常は吉野真常ingしてる。すべてのものは、beingで存在している。
 また「いま・ここ」は時間がない場所だと言ってもいい。移り変わっているのですから。

驢事(ろじ)未だ去らざるに馬事到来す」 (『五灯会元(ごとうえげん)』)

 驢馬(ろば)がまだ行かないのに馬が来てしまった。そしたらボコとぶち当たってしまうでしょう驢馬と馬が。しかし「いま・ここ」は、ぶち当たらない。いつでも「いま・ここ」ですから。
 ホーキング博士の本を読んだらビッグバン特異点という事が書いてあった。ビッグバン特異点とは、時間ができた出発点なんだそうです。これって「いま・ここ」の事ですよ。時間がない場所。永遠のいま。永遠と言うと皆すごく長い時間のように思うでしょうけれど、そうじゃない。始めと終わりがあったら永遠じゃない。永遠は時間ではない。それは「いま・ここ」。
 これは私の理解ですけれども、昔読んだ西田哲学(西田幾多郎(にしだきたろう)先生の思想体系)の本の中に純粋経験というものがあった。これって「いま・ここ」のありようを言っている言葉ですね。
 私が「いま・ここ」で皆様に向かって話しをしている。「いま・ここ」のありようでは、私と皆様が別ではない、別れていない。でもすぐ、「うわっ、たくさんの人がいるな」と私と皆様が分かれる。これはもう瞬時に、刹那に。また「いま・ここ」私と皆様が分かれない所を見た、聞いたと言ったら見る者と見られる者とが二つになってしまうでしょう。見る・聞くという事自体が「いま・ここ」のようす。
 「いま・ここ」の自己というものは、実を言うと私という思いを通さない。尽十方世界(じんじっぽうせかい)。それは「いま・ここ」の様子です。すなわち「いま・ここ」をいのちとし自己としているということになる。絶対の「いま・ここ」をいつも刻んでいることになる。二度と戻らない「いま・ここ」に生き、死ぬと言っていい。つまるとかつまらんとかは、私という思いが勝手に言っているだけです。
 『般若心経』の中に空について書いてある。空は絶対の義なり。すなわち「いま・ここ」ですよ。
 
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空
(観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊が空だと照見した)

 「行深般若波羅蜜多時」とはいつなのか。「いま・ここ」ですよ。その時、五蘊(ごうん)(色・受・想・行・識)が空だと照見したのです。私・皆様が空だと、絶対を生きているのだと、仏様だと照見したのです。
 道元禅師様は、「尽十方世界真実人体(しんじつにんたい)」と言った。尽十方世界とは、「いま・ここ」の何が何までです。それが真実人の体。そして次に「生死去来(しょうじきょらい)真実人体」と言っている。「いま・ここ」だから「いつでも、どこでも」生も死も真実人の体。
 お釈迦様は、二五〇〇年前のインドに生きていたと言われるけれど、お釈迦様は、私が二五〇〇年前と言っている、お釈迦様の「いま・ここ」を生きていたんです。そして死んでいった。その時の「いま・ここ」を。
 発心(ほっしん)をして修行をして菩提を得て涅槃に入ると思う。しかし発心も修行も菩提も涅槃も、皆「いま・ここ」の姿。「いま・ここ」絶対の所・すなわち涅槃にいて発心・修行・菩提・涅槃をみていたんですね。ウロウロしていたんです。そこにいながら。

 
「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり」(『正法眼蔵』「現成公案」)

 人がはじめて仏法を求めた時には、仏法を探さなければならない。遠い所・離れた所を。しかし、仏法が明らかに伝わった時「本分人」。「いま・ここ」で法と一つ。只是是となる。

見ようとする前に見えている
聞こうとする前に聞こえている

 私は、板橋興宗(いたばしこうしゅう)禅師様のおられる御誕生寺(ごたんじょうじ)専門僧堂の堂長師家(どうちょうしけ)を拝命しております。本来ならずっと詰めないといけないんですが、修禅寺のこともあり一か月間に三日程しか御誕生寺にはいないんです。この講演後三日後から向こうへ行きます。
 板橋禅師は、九十歳を越えていますが、随身させていただき本当に勉強になりますね。 毎朝修行僧達と一緒に坐禅をする。足を組んで坐れない時もある。そんな時は、椅子に坐っている。でも必ず坐禅堂で皆と一緒に坐る。摂心で一日中坐禅をするときもあるんです。お客様が来山されると坐れないけれど、帰るといつも坐禅堂へ出ていらっしゃる。「無理しなくてもいい」と思うんですけど。もちろん朝の読経、その後の粥座(しゅくざ)も修行僧と一緒です。粥座の後、毎日禅師様がお話しをされるけれど、いつも同じ話。でも私はそれがすごく有り難い。同じ道を行くなんて言ったら禅師様に失礼だけど、禅の道を往く人は、こうなって行くのだなと分かる。修行をされている人が、どう移り変わって行くのかがよく分かるんです。禅師様は言うんです。「わしには、もう仏法も鉄砲もない」と(笑)生きる姿がもう仏法そのものだから仏法なんて特別なものはない。
 禅師様はときどきこんなふうに言う「見ようとする前に見えている。聞こうとする前に聞こえている」昔の方は、よくこう言う。見ようとする前に見。聞こうとする前に聞こえているんです。これは、「禅はいま」「いま・ここ」の様子。「いま・ここ」では自己・他己が一つ。色と空が一つ。しかし、刹那に私が見た、私が聞いたと二つになるね。臨済宗では、よく「隻手(せきしゅ)の声」(片手の音)という。ほら、皆さん聞いているんですよ。でもその音は「パン」(両手を打ち合わせる音)というこの音ではない。「いま・ここ」の全部の音。「パン」という音にすぐとらわれるけれども、「パン」という音を聞こうとする前に、尽十方世界の音が聞こえているんです。今も。でも、刹那に私というものが入る。私の思いと都合が入るんです。
 どれだけ理屈を言っても「いま・ここ」にある。「いま・ここ」を刻む。それは私の見える・聞こえるという範囲だけではない。私という思いの範疇を超えて「いま・ここ」というのがある。それは移り変わっていくので厳密に言うとないのですがね。

 

喜心――よろこべる心

 みなさん、喜心(きしん)老心(ろうしん)大心(だいしん)という言葉を知っていますか? これは『典座教訓(てんぞきょうくん)』に出てくる言葉です。まず、道元禅師と典座和尚(寺の料理責任者)との出会いがある。中国の寧波(ニンポー)という港町で阿育王山から来た老典座和尚と出会った。端午の節句の供養のため椎茸を買いに来ていたようですが、もういいお年の方でした。若き道元禅師様は、色々お話しを聞きたかったのですが、彼は「私は典座職にあるからもう帰らなければいけない」と言う。道元禅師様は「あなたのような御老体が、なぜ典座という大変な役をやっているのですか、なぜもっと坐禅をしたり祖録を勉強したりしないのですか」と尋ねた。道元禅師様が中国へ行かれた時代、その当時の日本では食事を作ることは、修行として一級ではなかったんですね。でも修行に一級も二級もない。いつも絶対の「いま・ここ」にいるのですから。道元禅師様が「なぜ、坐禅をしたり祖録を紐解(ひもと)いたりしないで、典座なんていう雑用みたいな食事当番をしているのですか」と言うと、典座和尚はこう言った。「日本の若いお坊さん、あなたはまだ仏道の何たるかが分かっておらんな」と、若き道元禅師様はこの時「禅はいま」を知らなかった。禅らしき何かがあると思っていたんです。「いま・ここ」のほかに。だから次にこう聞いた。「如何(いか)なるか是仏道(仏道とは何ですか)」と。そしたら座和尚が「あなたのその質問のそこをはずさなければ、そこに答えがありますよ」と言ったのです。「如何なるか是れ仏道」は「如何なるも是仏道」だったんです。だから「仏仏の大道つたはれて綿密なり」隙間がない。そこがハッキリ分からないと隙間だらけ。
 「威儀即仏法(いぎそくぶっぽう) 作法是宗旨(さほうこれしゅうし)」と言う。威儀というのは、何かの習い事のことじゃない。われわれの四威儀(行・住・坐・臥)が即仏法だということ。それで道元禅師様は日本へ帰って来て『典座教訓』を書かれた。その中に典座の心構えが書いてあります。典座という修行は本当に道心のある者、法を明らめた者がつとめるべきで「禅はいま」が分からない者がやると雑用になってしまうと。「いま・ここ」「道」に力を尽くすことを辦道と言います。これがなかなかできないんだな。「ここ」にいながら「ここ」に居ない。「ここ」は腰掛けで、いつもウロウロしてる。道は脚下にあるのに。寺の玄関によく「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」と書いてあるでしょう。あれは靴を揃えろということだけではない。「お前が立っている脚下は大丈夫か。道は大丈夫か。ウロウロしてないか」ということです。
 『典座教訓」に書かれている言葉は典座職だけでなく、すべてのことに言える。脚下に道があるのだから。みな道の上で生きている。道に生きていて道が分からないでウロウロさがしている。たぶん一生鼻の下を伸ばして、何かを探してウロウロしている人や道に力を尽くせない人も沢山いるだろうね。
 「喜心」字のごとく喜べる心。「いま・ここ」にいる事に喜べる心。毎朝坐禅し、お経を読み、お粥を食べる。板橋禅師様を見てるといつも思うんです。そんな生活を本当によろこんでいると。私がお訪ねすると禅師様は毎回言うんです「ありがとよ。ありがとよ」と。喜べるんだな、有り難いと。それが喜心。

老心――やさしい心

それから老心。やさしいんだな。これは格好だけじゃない。人だけにじゃない。すべてに。これはある面で本当のエコ。お金がどうとかというのではなく「いま・ここ」のいのち全てにやさしいんだから。「禅はいま」が分かったらやさしくなります。本当に。
 私は修禅寺で動物たちと暮らしています。犬は今二匹います。一匹は保護犬。殺処分されるところだったんです。本当にいい犬なんです。苦労しているから。引き取った時十歳ぐらいだろうと言われた。いま十四歳です。私と心を合わせるのに一年間かかりました。今は毎晩私のフトンの上で寝ている。山羊も六匹います。これもかわいい。乳は取れません。乳を取る種類ではなく、ちょっとちいさなシバ山羊です。
 その山羊のうち一匹が腰麻痺(ようまひ)になった。人間ですと赤ちゃんの免疫はお母さんの胎盤を通してもらう。でも山羊は違うんです。初乳という乳を生まれて二十四時間以内に飲まないとお母さんからの免疫が移行しないんです。普通、山羊の子供は一匹か二匹だけど、メーと名付けた黒い山羊の赤ちゃんが三匹目に生まれた。二頭のお兄さんお姉さんが先に飲んでいたから、メーは初乳をあまり飲めなかった。だから、免疫が移行していなかったんです。腰麻痺というのは牛のフィラリアが山羊に寄生してなるもので、通常、シバ山羊は免疫を持っているんです。メーが一歳の時、腰麻痺になった。二〇キログラム程体重があったから大変でした。いまは元気になりましたけれど、月に一回ずつフィラリアを防ぐための注射をしています。私、獣医師の資格を持っているんです。ヤブですけれどね。
 動物たちを見ていると本当に「いま・ここ」を生き切っていると思う。そして鏡のような心を持っている。前に立つ人を鏡のように映すんです。その人がどんなうまい事を言ってもその人の心にある「恐れ」「不安」「疑い」などを映す。

 

大心――とらわれない心

 大心は、大山のような大海のような心。とらわれない大きな心です。「大用現前(だいゆうげんぜん)軌則を(そん)せず」(『碧巌録(へきがんろく)』)という言葉があります。「いま・ここ」「禅はいま」を明らめた人は必ずこの大心も持っています。
 どうかみなさん、点検してみて下さい。喜心・老心・大心この三心がなかったら「私は禅を知ってる」なんて言えないね。これは自分で毎日点検してみるといいと思う。
 そういえば、私の紹介をしなければいけませんね。今六十四歳、昭和三十年一月三十日に生まれました。前に話したように修禅寺で動物たちと暮らしています。ウサギも十一匹います。このウサギさん達の里親を募集しています。みんなに怒られるんです。「あんたは獣医なのになぜウサギを増やしたんだ」と。本当に私の不注意で情けない話しだけど、一匹も殺したくなかった。全部育てています。チビと言う名前のウサギがいます。生まれてすぐ、お母さんが育てるのを放棄しちゃった。私が授乳をして育てました。講演で東京へ行く時は、チビを置いていけないからチビを持って旅館に泊まった。チビを連れていると言うと怒られますから箱を包んで黙って部屋まで行って、チュチュとお乳をやる。目も開かず三〇グラムしかなかったのが今は二キロある。私がお母さんだから「チビ」と呼ぶとスーと来る。ときどき部屋に放しているけど、私の所に来てペロペロと舐める。家族のようです。
 私は人間の子どもはいないけれど子どもみたいな動物たちが沢山います。ぜひ修禅寺へ来てください。

 

変わりたい自分

 私の過去のことも話します。何人かの老師というお坊さん方にお世話になりました。ほかにも望月郁夫先生という恩師にも大変お世話になりました。もう実の息子のようにしてもらった。先生が亡くなり葬儀は私が導師をしたけれど涙が出て涙が出てお経が読めなかった。先生のことを思い出して。
 それから、うちの親父。ガンコで厳しい人でした。狩野川(かのがわ)台風の時、家の前を流れる狩野川が氾濫して危ないから逃げろというサイレンが鳴った。母が私を背負っておばあちゃんと一緒に逃げたけど、親父は逃げないんです。「オレはこの家を守ってここにいる。俺は逃げん。お前たちは逃げろ!」と。戦争へ行った人です。親父が私の小さい頃こう言っていた「オレはいつでも死ねるという教育を受けた」と。そんな親父も晩年病気になったときには「オレはまだ生死(しょうじ)の解脱ができてないんだ」とか言って「こんなに弱くなっちまった」って私に言うんですよ。
 私は、こんな壇上で偉そうな顔をしてみなさんに話しをしているでしょう。それが中学二年生の頃から高校生ぐらいまで、人と顔を合わせて話しができなかったんです。少しはできましたけれど、目と目を合わせるのが何だか怖くて。だから、ひきこもりの人が「人ごみが怖い」と言うことが分かる。私も怖かったから。人の多い所。お祭りとか買い物とか怖かった。いつも見られているようで、あがってしまう。買い物でお釣りを間違えたりよくしました。またいつも後頭部が緊張のためか突っ張っているようで。今でもなるのかな、人の中に入ると。だからどうしても自然が大好きになってしまう。学校から帰るとずっと散歩をしていました。家の近くに日切(ひぎり)地蔵尊というお地蔵さんがある。そこまで狩野川沿いを三キロぐらいかな。川を見、山を見ながら毎日散歩していました。両親には、申し訳ないけれど、高校生の頃は、人と会うのがいやで学校をさぼったりしていました。
 それがなぜ、こうなったのか。高校三年生の卒業間近、思うことがあったんです。「なんて情けない人間だろうか」と。人と目を合わすこともできない、いつも人目を逃げている自分が情けなくて。それから本当に変わりたいと思いました。変な話しですが「(さむらい)」になりたかった。生死を賭けて生き、死に臨んでもビクリともしない。その場を生き切り、死に切る、そういう者になりたいと思ったんです。
 それからですね。道を求めていろいろな人、場所を訪ねたのは。お坊さんだけでなく、キリスト教の教会・武道家、ヨガの先生とか。でも、変わるのには時間がかかりました。もし引きこもりの方が家族とか知り合いにいたら、その方も自分自身が何とかしたいと思えば変わりますよ。だってこの私が皆様の前でこんなに喋っているもの。だけど簡単にすぐには変わらない。時間がかかった。五年間ぐらいはかかったと思う。気がついたら、頭の緊張も取れ、人の目もあまり気にならなくなっていました。

坐禅をしなされ

 その頃に、太田洞水(おおたとうすい)老師に出会った。この方については、知っている方はほとんどいないと思います。澤木興道(さわきこうどう)老師に師事された方で世に全然でていない方です。ただ水平寺東京別院長谷寺(ちょうこくじ)後堂(ごどう)単頭(たんとう)をしたことがあると思います。
 伊豆の国市大仁に、沼田勇先生という玄米食を基本とする食養で病気を治すお医者様がおられた。澤木老師・太田老師の御縁で坐禅をされていました。私も沼田先生から食養についていろいろ教えていただきましたが、この先生が太田老師のお世話をしていたのです。老師は独り者です。身体には戦争で受けた多くの傷がありました。「痛かったですか」と尋ねたら「いや痛くはなかった。熱かった」と言っていました。戦地では、治る見込みがない人は治療しなかったそうです。傷だらけの老師に水を飲ませようとしたそうですが、「私はいい」と断った。三日たっても生きていた。「これは、生きるだろう」というので手当を受けることができたのだそうです。
 私ね、太田老師とあった時には「何のために生きているのか。幸せとは何だろう」と悩んでいた。みな幸せになりたいと思う。これから死に向かう人も幸せに死にたいと思う。幸せって何だろうかと。屁理屈・頭でっかちだった。絶対の「いま・ここ」に立っていながら、道の上に立っていながら。ウロウロ自分の都合のいい考え、所を探していたんだな。いままでだれも、両親も学校の先生も「道の上に立っている」なんて言わなかった。太田老師一人だった。
 庭の桃の花がきれいな春の日、太田老師は、お茶を飲みながらこう言った。「吉野さん。花を見てみなされ」と。そういう話し方。本当に昔の人のような「花を見てみなされ、美しく咲いているだろう。花はね、『人に奇麗に見せよう』とか『よく咲いてやろう』とか、そんなことは考えていないんじゃないか。花は、ただ(・・)一生懸命咲いているんだよ」と。
 老師は、ただ(・・)一生懸命いのちを刻むと言う。私はそれにいつも理由付けをしていた。「何のため」だとか。この時、私のいろいろな屁理屈がフッと落ちた。「あっ、そうか。いま・ここが幸せのところなんだ」と(ほぞ)落ちしたんです。
 こんなことがあって、太田老師が大好きになりました。だから老師に会って別れるとすぐ「次は……」と予定を入れて会いに行きました。会っていると姿勢が正しくなるんです。少しずつ「いま・ここ」に力を尽くすことができるようになった。
 獣医の資格を取り、学校は卒業したけれど、そのまま老師のもとで修行に入った。生きる根底、基本を学んでから世に出ようと思ったんです。親からは反対されましたけれど、太田老師について修行を始めました。よく言われたことは、「坐禅をしなされ」「坐禅をすると必ず人生が好転するんだ」と。
 一年程して老師にこう尋ねたことがあります。「坐禅を始めた頃は、何か張りあいがあったのですが、一年したら坐禅に張りあいがなく普通になってしまいました」と。「吉野さん、山から森を見るときれいに見えるでしょう。でもね、森の中に入るとその森の美しさが分からなくなるんですよ。あなたはいま森の中を歩いている。以前ほど美しいと思わないかも知れないが、足元には小さな花があったりとあなたは、前より森についてよく知ったはずだ。森の中にいて、いつも外を見ているからつまらない。森から出てみたら森の真の美しさがいままで以上にわかるぞ」と。
 しかし私が老師に付いて二年後に老師は亡くなりました。

 

積功累徳の禅者

 太田老師の亡くなった後、丹羽圓宗(にわえんしゅう)老師を訪ねました。修禅寺の前の前の住職。私が訪ねた時は、伊豆市の山寺・泉龍寺(せんりゅうじ)の住職で炭を焼いたりして、(ひと)時代前の昔ながらの生活をしていました。生活は、本当に質素。買い物をすることはなかった。私は毎朝、毎晩坐禅。師匠は、毎晩パチパチとタイプライターのような機械を打っていました。点字を打っていたのです。その点字をどこへ送っているのかだれにも言わない。それがある時分かったのです。私が大本山總持寺(そうじじ)の単頭時代、単頭職と人権室主事をさせていただいた時があったのです。その時、岡山県の長島愛生園(あいせいえん)へ行った。ハンセン病の療養所があった所です。達摩堂というところで禅宗の信者さんが集まって物故者(もっこしゃ)の供養法要をした。そこの代表の方に「私は、伊豆の修禅寺から来ています」と言ったんです。その方はびっくりしてね。「こちらへ来てください」と私を達摩堂の裏の書庫へ連れていった。そこには、澤木興道全集とか『正法眼蔵』とかが並んでいたんです。「これは丹羽先生が送ってくれたものです。いまから四〇年も前から丹羽先生は、点字を送ってくれたり、こういういろいろな本を送ってくれたんです。」と。そして「残念ながらもう年を取って修善寺へは行けない。でもね、テレビで修善寺のことが映ると『丹羽先生は元気かな』といつも懐かしく思うんです」と言う。私はすごく感激して思わず涙が出ました。「やっぱり私の師匠だ。この人の弟子でよかった」と心から思いました。帰ってその事を師匠に言うと、「そうだよ」と言ってた。達摩堂の代表者の方が言っていた「一〇年前には誰もこの島に来なかった。山田無文老師の関係する僧侶が年に一回訪問してくれただけ、近くの寺に葬式を頼んでも断られた。そんな時から丹羽先生は、よくしてくれたんだ」と。私は、うれしかったね。そういう人でした丹羽圓宗老師は。坐禅とか『正法眼蔵』とか難しいことは言わなかった。本当に積功累徳(しゃっくるいとく)。徳をコツコツ積んで、質素な生活をして、九六歳で大往生しました。ある朝急に倒れてそして亡くなりました。それまで元気で、「オレは、毎日五時間外作務(そとざむ)をするんだ」と言って庭の草取りを五時間座りこんでやる。そういう人でしたね。私は大好きだね。いまでも。

 

先人の背中

 それからもう一人だけ、ご紹介いたします。いろいろな出会いがあって盛岡市の報恩寺専門僧堂・(せき)大徹老師に参じました。当時の私は坐禅と托鉢に力を尽くしたいと思っていた。そしてそういう生活をしている老師に随身したいと考えていたのです。僧堂二年目、「もっと厳しい道場、一番厳しい禅道場に行きたい」と言う私にこう言ったのです。「岐阜の伊深(いぶか)という所に正眼寺(しょうげんじ)という鬼僧堂がある。わしの師匠、関頑牛(せきがんぎゅう)老師もわしも行った。いい修行ができるぞ。お前も行ってみるか」と。そんな訳で臨済宗の正眼寺へ行くことになったのです。
 関大徹老師も独り者で、八十歳で死ぬまでほとんど禅の修行道場にいました。下着の(ふんどし)は、毎回風呂に入った時に自分で洗っていました。人にやらせない。必ず自分で洗う。私は、老師のお世話係でもある行者(あんじゃ)をさせていただいていた。老師がお風呂に入っている時「老師、お背中流します」と老師の背中を流す。老師は、背中の流し方を教えてくれた。「シュッシュッとこうやって垢を流してから洗うんだ」と。そして老師が洗った褌を「はい」と私に渡す。もう八十歳の年寄りだから、あまりきれいに洗えてない。それで私は、老師に見えない所でもう一度洗って干していました。それから干すときもお日様の下に干さないんです。「お日様に申し訳ない」と言って。それから入れ歯だったからモクモク言って話しは得意ではなかったけれど、いつも言っていた。「禅坊主は、坐禅して托鉢して作務をするんだ」と。そして八十歳のおじいさんがそれをやっていたんです。
 いい禅の御手本を見せていただきました。関老師の坐禅の姿。「あーいいな」と思いながら見ていた。八十歳の老人が托鉢をする。雪の日とかは、滑って危ないから前と後ろを修行僧が守りながら行く。そして歩みが遅いから、よけい寒くなる。「タクアンがうまくない。漬け物がまずい。集まれ」って「こうやって漬けるんだ」と教えてくれる。また「甘酒は、こうやって作るんだ、本当の甘酒は発酵させる」と教えてくれた。すごく勉強になりました。
 私が伊深の正眼寺へ行く時、関老師がいろいろ用意して応援してくれました。私は、関老師と別れる時まであまり涙を流したことがありませんでした。太田老師が死んだ時も、丹羽老師のもとから報恩寺へ旅立つ時も涙を流さなかった。そんな私が、お別れをするため関老師の部屋に入り、老師に会い「これから行ってきます」と挨拶をした。正直、それまでは、涙が出るなんて全然思わなかった。でも老師を見たとたん、ワーッと涙が出て来て、自分でもびっくりするぐらい涙が止まらなかった。
 関老師がこう言った「わしは、お前を山門まで送る。昔、小浜の発心寺にいた時、原田祖岳老師が正眼寺へ行く自分を山門まで送ってくれた。だからわしも祖岳老師がしたようにお前を送るんだ」と。山門まで一緒に来てくれた。後ろからついて歩く私は、涙が出て涙が出て。三年したら戻ってこいと言われた。三年後に一度正眼寺から報恩寺へ帰りました。次に報恩寺へ帰ったのは、老師の葬儀の時になってしまった。いまは、珍しいでしょうね。関老師のように一生僧堂に居て厳しい生活をしている人は。
 いまはもうなくなったけれど、以前は私、背負っていたんです。太田老師のこと、丹羽老師のこと、関老師のこと。「ああなりたい」「老師方のように生きたい」という気持ちを。最初に臨済宗の正眼寺へ行った時も、私は何かそういうものを背負って行ったような気がする。他流試合じゃないけれど「俺は曹洞宗から来たんだ」と。そんな時、正眼寺の谷耕月(たにこうげつ)老師が「曹洞宗から来た者はよう坐るな」とおっしゃってくれた。それを聞いて「ああ、有り難いな」と思いましたね。もう時間が来てしまった。
 「禅はいま」「いま・ここ」に誠を尽くして下さい。いつか必ず死ななければならない。「ここ」は一回しかないですよ。「いま」を精一杯生きなきゃ。終わりにします。

(2021年8月)


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